ドノロンパンのたぶん更新しない日記

説明なんか無い。

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世界不思議発見 メキシコ

さてこんばんは、今週はメキシコでしたね。
今日は歴史の狭間に眠る一つのお話。

メキシコ史には二つの帝国と呼ばれた時代がありました。
現在のメキシコ政府は二つ目の帝国を認めていませんが、正当にせよ不当にせよこの地に帝国があったという事実は残ります。

一度目の帝国は1822年から1823年の僅か一年間の間存在したメキシコ帝国、皇帝はアグスティン1世在位は僅か1年。
二度目の帝政はフランス皇帝ナポレオン3世によって樹立した帝国1864年から1867年にかけて存在した帝国です。皇帝は神聖ローマ皇帝の弟マクシミリアン1世で在位は3年間。

時は200年前メキシコ独立戦争までさかのぼります。
1810年から1822年にかけてのメキシコ独立戦争は宗主国スペインに対して起こされたものです。
折しも、1810年、本国スペインは当時ナポレオン戦争(1803~1815)によってブルボン王家国王フェルディナント7世がスペインから追放されるという事態に陥っていました。
この政情が不安定な時期にメキシコにおいて最初の独立運動が起こりました。

最初の独立運動はメキシコ生まれの白人司祭ミゲル・イダルゴによって始まりました。ミゲルは教会の司祭という仕事を通じて現地人ネイティブやメスチーソと深く関わり、彼ら農民や鉱山労働者の厳しい生活を知り彼らの生活を憂いていました。
対して宗主国スペインから派遣された白人(ベニンスラール)たちは貴族、完全支配階級として君臨し、メキシコ生まれの白人(クリオーリョ)は現地人よりは優遇されていたものの被支配階級であったので同じ白人でありながら全く違う境遇にその苦悩も深かったのです。
ミゲルはクリオーリョ達と共に立ち上がり、この制度的搾取を終わらせるためには現地の人間たちの力で独立を勝ち取るしかないと言う結論に至ります。
1810年9月16日ミゲルはメキシコの小さな町ドロレスの教会の鐘を鳴らし、人々を集め決起の演説を行ないます。
この演説はドロレスの叫びと呼ばれ、「悪辣な政府と植民者スペイン人に死を!メキシコ人よメキシコ万歳!」と演説を行ないました。この叫びはこれまで苦痛にあえいでいた被支配階層ネイティブ、メスチーソの心に訴えかけるには十分なものでした。
ミゲルの演説を聴いた民衆は怒りに打ち震えました。被支配階級として生まれ被支配階級として当然のように人生を終える。彼らはこの世界の不条理に対して公然と牙をむいたのです。
ミゲルは人頭税の廃止、奴隷制の撤廃、徴収された農地の返還を掲げ当時最大の鉱山都市グアナフトに向かいます。

その数2万人、彼らはその怒りをグアナフトのスペイン人に対して爆発させます。グアナフトの鉱山労働者達もこの反乱に加わり、現地のスペイン人を虐殺し食料などを略奪しました。数を増す反乱軍はメキシコシティを目指し、随所の都市を陥落させ各地でスペイン人を虐殺しました。
しかし、破竹の進撃を続けるものの、彼らには目に付いたスペイン人を殺す、奪う、追放する。これだけのイデオロギーしかもっていませんでした。各地でスペイン人からの開放を続ける群衆は農民や鉱夫の熱狂的な支持は得たものの、統治と言う形には至りませんでした。要するにこれからどうするか、そのモデルが無かったのですね。「悪いのはだれだ!スペイン人だ!では殺せ!」この反乱はシンプルでわかりやすくはあるものの、その先の新たな体制を作るには至らず国家としての枠組みも持つことはありませんでした。
そして、クリオーリョ達はひたすらにスペイン人を虐殺するだけの反乱から距離を置き始めていました。
1811年3月、彼ら反乱軍はメキシコシティに向けて進軍中に政府軍の待ち伏せに会い壊滅、ただひたすらに膨張を続けただけの群集たちは砂の城のようにバラバラと崩れ去っていきました。
1811年7月アメリカへ脱出しようとしたミゲルは逮捕され銃殺されてしまいます。

このナポレオン戦争時代、本国の混乱を好機としてベネズエラ、エクアドル、ボリビア、コロンビア、アルゼンチン、チリ、これらのスペイン植民地である南アメリカ国家が次々に独立戦争を起こしてしています。

メキシコにおいてもクリオーリョの指示を集めることができれば、情勢は変わったかもしれません。
ミゲルの起こした反乱は失敗しましたが。メキシコ各地に大きな波紋を広げることになったのは確かです。
この反乱を前後してメキシコ国内でも小規模な反乱は相次いでいました。フランス革命から始まった自由主義の波はアメリカの独立、南米各国の独立闘争を経て、メキシコ人達ははっきりとスペイン人の支配を不当なものであると自覚しつつあったのです。
そのなかで大きな反乱はメスチーソである司祭ホセ・マリア・モレーロスの反乱です。モレーロスはミゲルと違い、はっきりと独立の形を描いていました。奴隷制度の撤廃、主権在民、三権分立をかかげた独立運動は反乱と言うより革命であり。新しい国家の誕生を予感させるものでした。モレーロスは南部を掌握し憲法を公布、公然と独立を宣言しました。しかし、モレーロスにとって不運なことにこのタイミングで本国スペインを混乱に陥れていたナポレオン戦争が終結してしまったことです。
国家は教皇に認められた皇帝の下に統治されるべきであるという王権神授説が当時の国家体制の中心であったこともあり。モレーロスに賛同するクリオーリョや軍人や貴族は少なかったのですね。スペインの混乱の終結と共にモレーロスは独立を維持できなくなり、各地でメキシコ王党派政府軍に敗北し1815年に逮捕され銃殺されます。

スペイン人、クリオーリョ、メスチーソ、現地人、複雑に絡みあった人種と階級の違いは必ずしも革命と保守という二つのイデオロギーの対立という単純な形にはなりえませんでした。
現地人は白人全てを憎んでいましたし。クリオーリョはスペイン人との階級差に不満を覚えていたものの、地位や仕事は現地人よりは優遇されていたため。現地人の急進的な白人排除運動には賛同することができなかったのです。混血であるメスチーソにとってはどちらにも行き場の無い状態でした。

こうした混沌とした情勢の中、アグスティン・イトゥルビデという一人のスペイン王党派の軍人がメキシコ北部で独立派反乱軍と戦っていました。当時の階級は中尉。一介のクリーリョでしかありません。彼が後のメキシコ皇帝アグスティンです。僅か一年余りの第一次メキシコ帝国の皇帝となる人物です。

アグスティンは生粋の保守主義者であり王党派の人間でした。主権在民など全く考えに無く、王権神授説を信じていて体制側に立ちミゲルの反乱やモレーロスの反乱において反乱軍を完膚なきまでに叩きのめし大きな戦果を上げています。

そんな彼がなぜメキシコ独立をなしえたのでしょうか?
これもやはりスペイン本国の混乱に大きな要因がありました。

スペインはナポレオン戦争終結後、フェルディナント7世がホセ1世を追放し再びスペイン国王の在位についたものの、前国王つまりナポレオンの兄ホセ1世の行なった近代的な国家政策を全て否定し、旧態依然の絶対王政へゆり戻しを進めていました。スペインは当時二つの価値観がちょうどぶつかる狭間のような状態で。ナポレオンによってもたらされたフランス革命から続く自由主義の波と保守的な絶対君主制の二つのイデオロギーが混在し不安定な状態になっていました。

ナポレオンがもたらした自由主義の波と書くとちょっとずれていますが、ナポレオンはともかく、ナポレオンの兄ホセ1世はスペインにおいて自由主義的思考を持った近代的な国家体制を敷こうとしていたのです。

このフェルディナント7世の施策は自由主義者たちの反発を招き、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐による革命を誘発しました。(リエゴ革命)
ヌニュエス大佐は独立闘争を続ける南米各国の鎮圧に向かわされる予定だった部隊に所属していたのですから皮肉と言えば皮肉です。
というより、ナポレオンの支配からの独立戦争を終えたスペインが帰ってきた国王を失脚させる、というややこしい事態はスペインの複雑な状況を端的に示しているでしょう。

「スペイン王の失脚さる!」この衝撃のニュースに危機感を覚えたのがメキシコ政府です。
メキシコ王党派はスペインの絶対的支持、つまり、自らの正当性を王権神授説に託していました。つまり、スペイン本国が民衆革命に陥ると即座に自らの正当性が疑われます。
権力を行使するときそれが何によって担保されているか?というのはいつの時代でもとても重要な問題なのです。正義なき力は暴力であり、力なき正義は無力であると偉い人がおっしゃっていましたね。正義とはなんなのか,この時代の正義とは王権なのか主権在民なのか?という二つの正義の狭間の物語です。

メキシコ王党派は即座にスペインの革命政府に反旗を翻します。正当な王でないものに我々は従わないというわけです。
ここに至ってアグスティンは一つの賭けに出ます、メキシコをスペインから切り離し、別の正当な王家を向かえて独立国としよう、というわけです。もはや正当ではなくなったスペインではなく正当な血筋を持つ王家を招きいれようというわけですね。

こうしてアグスティンはメキシコ北部戦線で戦っていた独立派と和解、スペイン王党派も彼の意見を支持、そしてスペインから切り離されるわけですからコエリーリョ達にも受け入れられるというかなりの離れ業をやってのけるのです。

この発想は驚きですね。

こうして、様々な味方を得たアグスティンは王党派、独立派の軍勢と共にスペイン軍を撤退させ、民衆の支持を取り付け、軽々と独立に成功しました。
南米各国で多数の血を流して成し遂げた独立と違い、あっさりとした無血での独立です。

しかし、見込み違いがありました。
ヨーロッパ各地の王族に打診したものの、誰もこの国の王になると名乗り出るものはいなかったのです。それもそのはず、もともと、独立派と王党派は相容れないもの、一時の利害で一致しているだけでこのいびつな器に収まる王なぞ存在しえません。

この結果、幸運か不運か、なり手のいない帝国の皇帝にアグスティンが選ばれることになってしまいます。彼自身望んでもいない玉座でした。
そして、皇帝とはいえ、王党派からすれば正当な血筋でもない皇帝であり、独立派からすればただ単にスペイン本国からアグスティンの帝国になっただけという、どちらともとれない奇妙な帝国の成立、このいびつな帝国は一年も持たずに崩壊します。

彼がやった反対派の弾圧はこと王としては当然の権力の行使ではあったでしょう、しかし、なんの権威も無い権力の行使は反発するのに十分な理由になります。正当な王様がやったことは許されるが成り上がりがやることは許されない、そう考えた人もいれば、そもそも王様なんぞ認めないという考えの人にも受け入れられません。彼自身が白人であったことも悪いほうに傾いていきました。何もしなくても皇帝として失墜し、なにかしても失墜する。アグスティン1世は中部アメリカの併合に成功したり王としての成果もあったものの。アグスティンにとって望まなかった皇帝は不幸な結果になりました。

1823年結局どこからの支持も得られないまま、各地の反発に耐え切れずアグスティンは自主的に退位し、メキシコからの年金を条件に出国します。出国と言うより追放ですね。その後イタリアに亡命し、ロンドンに渡ります。

その後彼は何故か1824年メキシコに戻ることを決意します。
何が彼をそうさせたのかわかりません。
結果は見えていたし彼を待ち望む民衆も皆無でした。
もしかしたら生まれ育ったメキシコの地で穏やかに年金生活を送ろうとしたのかもしれません。しかし、新たに共和制となったメキシコにとって皇帝は邪魔な存在でしかなかったのです。彼は上陸した直後、その場で逮捕、射殺され一介の軍人から皇帝となった41年の数奇な人生を終えます。

さて、長くなりすぎましたが。
いかがだったでしょうか?歴史の狭間に埋もれている物語。自ら望まぬ王が誰も望まぬ玉座についた物語、数奇な一年の帝国。
楽しんでいただければ幸いです。
もう一つの歴史の狭間の物語、第二次メキシコ帝政については明日書きましょう。
それでは、良い一週間を!

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