ドノロンパンのたぶん更新しない日記

説明なんか無い。

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世界不思議発見 トルコ ~コンスタンティノープル包囲戦~

さてこんばんは、
長くなりすぎたトルコ編の続きを少々。

-コンスタンティノープル包囲戦-

オスマン帝国スルタン・メフメット2世はコンスタンティノープル攻略を決意、精鋭イエニチェリ2万を中心とした12万の軍勢がコンスタンティノープルを包囲しました。
対するビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世率いるビザンツ帝国側防衛軍はギリシア人4000人、外国人2000人に傭兵と援軍が1000人ほど、合わせて僅か7000余り。

コンスタンティヌス11世は必死にローマ教皇ニコラウス5世に救援を求めましたが、結局本格的な援軍は来ることはありませんでした。

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1453年4月5日、未曾有の包囲戦が始まります。オスマン帝国軍はコンスタンティノープルの西側に長大な陣を引き、前線の中心にハンガリー人技術者ウルバンに作らせたウルバンの巨砲を備えつけました。
ウルバンの巨砲とはコンスタンティノープルの防御の要である三重の城壁、テオドシスの城壁を撃ち破るために戦いに投入された巨大大砲です。もともとウルバンはこの巨砲作成技術をビザンツ帝国に売り込むつもりでしたが、資金不足を理由に断られています。オスマン帝国は彼に目をつけその技術を潤沢な資金で買い上げました。砲身の長さ8.2メートル直径76.2センチメートルという当時最大の巨大大砲は西欧の先を行く世界最先端の攻城兵器でした。

4月11日オスマン帝国側はコンスタンティヌス11世に降伏を求める使者を送っています。内容は「コンタンティヌス11世がコンタンティノープルを明け渡し、家族と部下を連れて退去すれば住民の安全と財産は保証する」というものでしたが。コンスタンティヌス11世はこれを受け入れませんでした。

おそらく、コンスタンティヌス11世とコンスタンティノープルの守備兵7000、住民4万人はこの都と運命を共にするつもりだったのでしょう。キリストがこの都を見捨てるはずがないと考えていたのかもしれません。しかし、どちらにせよこの悲壮な決意には想像を絶するものがあります。既にテオドシスの城壁から眺め見ると、大地を埋め尽くさんばかりのオスマントルコ軍の陣地が広がっていたはずです。
守備兵たちは眼下に広がる広大な陣地に向かい銃を構えます、来るはずもない救世十字軍の到来を請い願いながら…

4月12日、降伏勧告が受け入れられないことを知ったメフメット2世は攻撃を指示。オスマン全軍による総攻撃が始まります。

しかし、3重の城壁の守りは固く、城壁を破るために作られたウルバンの巨砲は強力でしたがピーキーで予想以上に使い物にならなかったようです。西側の前線はこう着状態に陥りました。といっても圧倒的物量差があるので陥落は時間の問題で会ったのは間違いありません。

4月20日、ビザンツ帝国は尽きつつある物資を補給するため決死隊を編成しました。西欧から届く援助物資を受け入れるため、ビザンツ艦隊は数で勝るオスマン海軍相手に奮戦し、封鎖されていたボルボラス海峡を突破、マルマラ海へ活路を開くことに成功しました。

この失態を受けて圧倒的優位であるはずのオスマン陣営では動揺が広がり、主戦派と慎重派が激論を繰り広げていました。
慎重派は「コンスタンティノープルは思った以上に堅牢だ、このままでは西欧から十字軍が来るのではないか?十字軍が到来すればオスマン軍に逃げ場は無い、ここは一旦休戦するべきだ。」と主張していました。十字軍の不安は影のように付きまとっていました。オスマントルコ側も決して楽な戦いではなかったのです。
また、オスマン海軍は金角湾入り口に張り巡らされた巨大な鉄鎖に侵入を阻まれ、海からの攻撃は思うように進みませんでした。
ビザンツ帝国海軍は金角湾の守備を徹底していました。第4次十字軍にコンスタンティノープルを落とされた際も弱点であった金角湾からの攻撃が原因であったためです。


4月21日、前日の失態に動揺が広がっていく臣下に対し、メフメット2世は事態を打開すべく奇策を用いることを命じます。ボスボラス海峡に展開するオスマン艦隊を闇夜に乗じて陸路で金角湾に運ぼうというのです。
70隻もの大艦隊を陸路で運ぶ、この奇策は見事にはまりました。

4月22日朝、金角湾にオスマン海軍が突如として出現します。この僥倖にビザンツ艦隊は慌てて焼き討ちによる迎撃を試みるものの失敗。オスマン軍は脆弱な金角湾側からの攻撃を開始。ビザンツ艦隊は総崩れになります。この日を境に形勢は徐々にオスマン側に傾いていくことになっていきます。

コンスタンティ


5月6日、聖ロマノス門にオスマン軍の総攻撃、これは失敗しビザンツ帝国軍は辛くもこの攻撃を退けます。

5月12日、今度はカリシウス門への総攻撃、これもビザンツ側が持ちこたえます。

しかし、徐々にウルバンの巨砲が真価を発揮し始めます。装填速度と命中精度に問題があったウルバンの巨砲も、時間をかけ堅牢であったテオドシスの城壁を徐々に蝕んでいきました。ビザンツ側も懸命に城壁を修理するものの間に合わず、崩壊の日が間近に迫っていました。

5月23日、最期の降伏勧告がオスマン側からなされます。町の退去とその際の身の安全を保障するものでしたが、コンスタンティヌス11世はこれを断りました。

5月26日、ハンガリーから休戦の申し入れがありましたがこれも不調に終わりました。

5月28日、ビザンツ帝国崩壊の前日。コンスタンティヌス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行ないます。兵士たちは死を覚悟し、涙ながらにお互いに別れを告げあいました。その後、ハン・ソフィア大聖堂で洗礼の儀式が行なわれ、皇帝コンスタンティヌス11世、兵士、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げました。コンスタンティヌス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うたそうです。

1453年5月29日、ビザンツ帝国最後の日。メフメット2世は夜も明けきらない未明から最後の総攻撃を命じます。コンスタンティヌス11世も前線で自ら指揮を取り、決死の覚悟で最後の抵抗を試み、オスマン軍の総攻撃を2度も持ちこたえます。
しかし、3度目の総攻撃が始まり、遂に西の聖ロマノス門が夜明けとともに陥落、城内に精鋭イエニチェリ2万人が雪崩こみました。
勇猛果敢で知られたイエニチェリは、直ちに都市内の殲滅戦を始めます。コンスタンティヌス11世は戦いの混乱の最中行方不明となり、この日、紀元前から1500年続いたローマ帝国は息絶え、長い長い歴史に幕を閉じました。

当時の世界の慣習として、抵抗を試みた都市には戦った戦士たちへの報酬として3日間の略奪行為が許されていました。
これはイスラム聖法に記述がありますが、十字軍の都市攻略戦の際にも同じことが行なわれており、キリスト教イスラム教を問わず戦いの報酬として一般的であったようです。
資料によって期間の違いはありますが、当時のコンスタンティノープルで大規模な略奪行為が行なわれたことは確かで、教会の金や銀の装飾、礼拝に捧げられたイコン、おびただしい量の金銀宝石が略奪されました。
また、当時のイスラム国家においては人間もまた重要な略奪対象だったため、市中の教会に非難していた住民も略奪から免れませんでした。このため多くの市民が奴隷に落とされ、その数は5万人にものぼったといわれます。

メフメット2世はこの堅牢な都をなるべく無傷の状態で手に入れたいと考えていたといわれています。そこで陥落直後の混乱が収まると即座に兵を率いて入場し、それ以降の略奪行為を禁じました。

メフメット2世は当時22歳。2ヶ月間に及ぶ攻略戦は終わりの時を迎え、メフメット2世この地をイスタンブールとし、オスマン帝国の首都としたのです。

さて、いかがでしたでしょうか?オスマン・トルコ成立とイスタンブール奪取の歴史をごく一部紹介させていただきました。

この後、オスマン・トルコは常にどこかで戦争を行い勢力を拡大し続けます。ハンガリー王国、アルバニア、ワラキア、アナトリア南部のカラマン諸国群、騎兵王ウズン・ハサン率いる白羊朝(現在のイラク付近)、イランのサファヴィー朝、エジプトのマルムーク朝、そして再びはハンガリー王国、カール5世率いる神聖ローマ帝国と、オスマン帝国と戦って大打撃を受けた、あるいは滅んでしまった国は数知れません。
間違いなくこの時代最強の軍事力を持った国家はオスマン・トルコだったといえるでしょう。

何故オスマンが最強の軍事力を持ちえたか?これも話せばながーくなる制度や慣習が存在し、非常に興味深いお話になるのですが、超長くなるのでw今日はここまでにしたいと思います。

それでは良い一週間を。

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