ドノロンパンのたぶん更新しない日記

説明なんか無い。

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海賊旗を掲げよ!

海賊旗といえばジョリーロジャー、ONEPIECEにだ評されるように海賊というカテゴリーを一括内包したイメージとして現在に伝わっているこの旗であるが、実際のところ歴史的に見れば点の範囲である。

ジョリーロジャーと呼ばれる海賊旗は基本的に18世紀初期、1700年から1720年代のごく短い期間でしか使用されなかった。
1690年から1700年になり始めて無国籍の専門海賊集団が活動し始めたが、1720年代も後半になると大規模な海賊集団そのものが駆逐されてしまったからだ。
その間わずか30年ほど、古代から現代まで続いている「海賊」という非常に長い海の略奪者の歴史から見てしまえばジョリーロジャーは非常に短い期間しか使用されていない。


現在最も有名な海賊旗はサミュエル・ベラミー、もしくはジョン・ラカムの海賊旗かと思われる(これが現在のスタンダードな海賊旗として認識されているのはピーターパンや宝島などの影響だろうか。)

ジャックラカム
ジャック・ラカムの海賊旗

エドワード
サミュエル・ベラミーの海賊旗


だが、海賊旗というのは海賊によって異なる、確かにサミュエル・ベラミー、ジョン・ラカムの海賊旗はデザインとして素晴らしい、逆に超有名海賊エドワード・ティーチやエドワード・ロウ、ロバーツ・バーソロミューなんかの旗はこう言っちゃなんだがとてもダサい。

ティーチ
エドワード・ティーチの海賊旗

バーソロミュー
ロバーツ・バーソロミューの海賊旗

エドワード
エドワード・ロウの海賊旗

基本的に黒旗に様々な図柄を描いた海賊旗であるが海賊集団によって別個の旗を使用し、それぞれの所属を主張していたのである。
あの旗は麦わら海賊団の船、この旗はエドワード・ティーチの船といった具合である。

黒旗より前の17世紀にカリブ海を荒らしまわったバッカニア達は赤旗を用いていた。
中世の時代から現在に至るまで船に掲げられる旗は所属と信号であり、所属旗の他に船の状態を示すために使われている、当時の赤旗は戦闘を表す状態旗であり、バッカニアや私略船は「降伏せよ、抵抗すれば死を」という意味で赤旗用いていた。
なぜ、この一見すれば異様なデザインの黒旗が使用されるようになったのであろうか。

元々この年代にはスペイン継承戦争の影響もあり、スペイン・イギリス・フランスの私略船達も活動していた。またスペインのガルダ・コスタと呼ばれる沿岸警備隊も臨検と称し積荷を強奪するなどカリブ海沿岸において海賊まがいの行為を行っていた。
だが、彼らはこのジョリーロジャーと呼ばれる黒旗を積極的に用いることはなかった、一体何がそうさせたのだろうか。彼らと海賊達には何の違いがあったのだろうか。

黒旗は彼らが完全なる海賊を示す非常に手軽な手段であった。

海賊行為に及ぶ上で一番避けなければならない事態とはなんだろう?
商船を取り逃がす?海軍に見つかる?船が座礁する?どれも危険ではあるが、赤旗に示される「降伏せよ、抵抗すれば死を」という脅し文句の通り、海賊行為そのものにリスクがあった。

もちろん海賊船は武装しており、商船が用いた脅しのハリボテ大砲に紛れた申し訳程度の大砲や、反乱防止のため少量しか積まれていない小火器など相手にしない武力を持っていた。
だが、実際に大砲を撃って商船を沈めてしまってはお話にならない、彼らの目的は通商破壊ではない、略奪である。


砲撃戦や接舷後の白兵戦闘は海賊集団としてみれば圧倒的な制圧であっても、個々の海賊で見れば避けたい事態である、接舷して白兵となれば少量の小火器といえど自分に当たることは願い下げだ。船上で鍛え上げられた水夫に建材で殴られるかもしれない、ナイフで切られることもある。洋上という空間と非衛生的な船上という特性からちょっとした怪我が致命傷になることも大いにありうる。
また、しょっぱい火砲の砲撃といえど海賊からすれば海賊船は唯一の財産であり、なるべく傷つけたくはなかった。
彼らにとって海賊行為は戦争ではなく、継続した生活なのである。

そのためには「わかりやすく、無条件に相手を降伏させる必要があった」のである。
この時代の商船には様々な外敵が存在した、略奪者として見れば私略船もガルダ・コスタも海賊も積荷を狙う点では変わりが無い。
だが、黒旗を用いる海賊達は自分達が最も危険な存在であると知らしめる必要があった。

例えば、私略船には所属する国家や船主がおり、大抵は貴族や軍人であったため悪評が立つことは避けなければならず、戦闘後の降伏が認められる可能性は高い(この時代になると、私略船であっても悪評が広まると海賊行為禁止法に引っかかってしまう。)ガルダ・コスタはそもそも沿岸警備隊であるので無意味な殺戮は認められていない。

だが黒旗を用いる海賊達の所属は船であり、いかなる法に縛られることは無い、つまりいかなる残虐な行為も彼らには問題なく行えるし、それを訴える先も無い、論理的に彼らを縛るものは無く、制圧した船員を殺そうが殺すまいが結局は縛り首である。
「降伏せよ、抵抗すれば死を」さらに言えば「降伏せよ、抵抗すれば苦痛をもった死を」という非情なる信号を送るには最適な旗であり、また実際にその効果は大きかった。
海賊が黒旗を掲げるのはノーリスクである、もともと海賊である彼らには帰る本国も無く船主もいない、サーの称号が欲しいわけでもないし、どの国の海軍に捕まっても縛り首である。

だが逆に、私略船やガルダ・コスタが黒旗を掲げるのはハイリスクである、彼らには帰る本国や植民地があり私略で得た資金でまっとうな暮らしを送ることが最終目的である。法に則った行動をしなければならず、単なる海賊となることは許されない。黒旗を掲げることは海賊とみなされるためこれを掲げることは非常にリスキーである。

この黒旗のブランドイメージは徹底して守られた。
黒旗を掲げ、「降伏せよ、抵抗すれば死を」このメッセージを宣伝効果として利用しなければこのおどろおどろしい黒旗に意味は無い。
海賊たちは黒旗に対して抵抗を試みた商船に対して無慈悲に振舞った、そうしなければ黒旗の効果は無くなるし、抵抗しても降伏が許されるなら抵抗する、という事態になりうるからだ。
ロバーツ・バーソロミューはオランダ船が抵抗したため4時間にも及ぶ戦闘を行い勝利し、降伏したものを拷問した上で後皆殺しにした。

エドワード・ロウにおいては無条件で降伏した船においてでも、抵抗を提案した船員を聞きだし、その者の耳を切り落としさえした。

エドワード・イングランドの最期が最もこの旗の重要性を示しているだろう。
エドワード・イングランドはバッカニア時代から活動した非常に有能な海賊で1720年代には最大20隻にもおよぶ船団を率いた大海賊であったが、インド洋で東インド会社の大型帆船カサンドラの捕縛に際して激しい抵抗にあった。
慣例であればこの船の船員は皆殺しだ、特に抵抗を決断した船長に慈悲は無い。だが何を思ったのかエドワード・イングランドはカサンドラ号マクレー船長に情けをかけいくらかの積荷を与え逃がしてしまった。
海賊達はこの行動に怒り船長解任投票を行ってエドワード・イングランドは船長の座を追われ無人島に置き去りにされた。

 ジョリーロジャーという黒旗は「自分の船を守ろうと試みた船員は何人であれ、何ら慈悲は与えられない。」という海賊達の基本方針を示しているのである。
 
そして、多くの場面において海賊達は商船が抵抗しなければきっちり約束は守った。そうでなくては黒旗の意味が無くなるからである。商船側がどうせ殺されるなら抵抗しようと考えてしまうからだ。殺されるか降伏するか選べという選択を突きつけてこその黒旗にメリットが生まれるのである。
その点において海賊達は「信用」つまり約束を守ることに非常に気を使った、人質を取って身代金を要求する際も身代金が届けば必ず人質を送り返した。そうでなければ次に人質を取った時に身代金が届かないからだ。

実際この黒旗は非常に効果があった。

多くの商船船長、船員は私略船やスペイン人には戦う戦意を持てたが、黒旗を掲げる海賊に戦うとなるとその戦意は瞬く間に失われた。
商船船長はウィリアム・ワイヤー船長が部下に「未知の攻撃者が現れた場合、自分達の船のために戦ってくれるか?」
水夫たちは「スペイン人相手なら命がけで戦うが、相手が海賊なら戦わない」と即座に答えた。多くの場合、船長が抵抗を指示しても水夫達が海賊に恐れをなして戦意を消失してしまった。

海賊ネッド・ロウ船長は数隻の船団を急襲したが、彼らは銃を一発も撃つことなく、即座に降伏した。

なんとこれは軍にさえ及んだ、ある時フランスの駆逐艦2隻がロバーツ・バーソロミューの海賊船を違法商船と勘違いし追撃したことがあった。だがバーソロミューが海賊旗を掲げるとフランス海兵は瞬く間に戦意を喪失し、一切の攻撃を行うことも無く即座に投降した。
それほど海賊旗は恐怖として水夫たちに植え付けられていた。

おかげで海賊達の略奪行為に際し、ほとんどの商船は黒旗を見たとたん抵抗を諦めた。
船長が抵抗を指示しても水夫たちが怯えてしまい降伏せざる追えなかった。

これは海賊達が「自分の船を守ろうと試みた船員は何人であれ、何ら慈悲は与えられない。」という鉄則と黒旗のブランドイメージを守り続けたが故の非常に高い成果である。
これは抵抗した船員に慈悲を与えず、逆に降伏した船員には危害を加えない、その基本原則を守りつづけたイメージ戦略が大きく影響している。

彼らが海賊旗を掲げた理由、何故このような異様な黒旗ジョリーロジャーを使用したか、理解して頂けただろうか。
ジョリーロジャーは戦闘なしに略奪を行いたいという海賊の本心と、抵抗した船員には無慈悲な拷問と皆殺し。降伏して財宝を素直に渡せば非常に丁重に扱うという。無軌道な残虐性と、降伏すればきっちりと約束は守るという理性的な合理性にそったしたたかさ、相反するような二つの側面を内包していた。
ジョリーロジャーは残虐と誠実という奇妙な二面性を持っていたのだ。

それにしても、抵抗すれば無慈悲に皆殺し、どうして皆殺しにされたのに、こういった話が誰から伝わって広まったのだろう?これは後に海賊達のイメージ戦略で語るすることにする。

では次に、海賊たちの洋上生活について見ていこう。
君は海賊だ、洋上には何があるのか?
船長は暴君?海賊達はモヒカンの荒くれ者?
意外な海賊生活が明らかになる!

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海賊達の生存学

まず、海賊について語ることは、概ねにおいて正確な資料に即していないと言うことを記しておこう。

海賊は当然ながら犯罪行為であり、その犯罪記録を律儀に残そうなどという頭平和な海賊などいるわけも無く、必然的に海賊たちの世界は口伝と言う形でしか現在に伝わっていない。
いうなればエピソードであり、伝説だ。
海賊について書かれた本は幾多あるが、実在した海賊達について詳細に書かれた書物は1冊しか存在していない。キャプテン・チャールズ・ジョンソンの「海賊史」である。
この文献は非常に歴史的価値が高いことは確かだが、脚色も多く疑問視されている部分も多い。
これを読む際にはまずこのことを頭に入れておいて欲しい。


次にここで扱うのは16世紀の私略海賊ではない、17世紀のバッカニアでもない、勿論バルバリア海賊でもなければノルマン海賊(ヴァイキング)でもない。
いわゆる船が国籍の海賊、正真正銘の海賊をとりあつかう。

要するにジョリーロジャーを掲げる18世紀の海賊である。

ちょっと勘違いしている人もいるかもしれないが、いわゆるメジャーなイメージの海賊pirates、例えばONEPIECEであったりピーターパンに出てくる海賊なんかはこの18世紀の海賊がモデルである。
こいつらは16世紀の代表的海賊フランシス・ドレークやジョンホーキンス等の私略海賊privateerとは実は全然違う。

この違いを説明するならば。

船主としての権利が海賊側にあるかどうか?
と言う問いにYESならば海賊、そうでないならば私略船と大雑把に分けることが出来る。

そしてこのpiratesとprivateerの中間の位置にバッカニアが存在する。
17世紀にカリブ海を荒らしまわった無法者のバッカニア達は、無法者という範疇ではあったものの実際のところスペインの輸送船と入植地を狙ったものであり。(他に目ぼしい獲物がなかった。結果的にトリデシャリス条約に縛られていたイギリスはこれを利用した。)
バッカニアは間接的にイギリス・フランスの後ろ盾を得たスペインへの攻撃が主であった。もちろん、彼らは後ろ盾を得ただけであり、行った行為は全て海賊が勝手にやったこととされた。だが、イギリス領ジャマイカのポート・ロイヤルでは海賊が排除されることも無く、むしろスペインから奪った金銀と引き換えにイギリス総督府が私略免許を与えていたため、現在のイメージの海賊とは違い私略海賊にかなり近い武装集団であった。

このバッカニア達の楽園のようなカリブも次第に終わりを迎える、1684年のラティスボン条約でフランスとスペインが和平を結びイギリスとフランスが対立し始めたこと、略奪の繰り返しでスペイン植民地が疲弊し、十分な稼ぎを得られなかったこと等が理由とされるが、イギリス領総督が1680年の海賊行為禁止令を境に私略免許を与えなくなったことが大きく影響している。
スペイン領パナマを攻略したことで名をはせたバッカニア、ヘンリー・モーガンがイギリス領ジャマイカ副総督となりバッカニアをポート・ロイヤルから追放、ついには1699年の海賊取締令も出され、バッカニア活動は規模を縮小していく。
(後年に元バッカニアのバハマ総督ウッズ・ロジャーズが黒髭エドワード・ティーチを追い詰めナッソーを陥落し、カリブの海賊に事実上の終止符を打ったこともまた皮肉である。)
この後カリブのバッカニアはなりを潜め、カリブを離れたバッカニアはインド洋や大西洋アフリカ沿岸などで活動するようになる。これらのバッカニアは私略免許も無ければイギリスやフランスの後ろ盾を得ない海賊であり、無国籍・他民族といった様相を呈し始めpirates化していくのである。
カリブに海賊達が戻ってくるのは18世紀になってからである。ほんの10年ほどだが、しかし、彼らはバッカニアではなくpiratesとして戻ってきたのである。

17世紀も終盤になるとイギリス・スペインはスペイン継承戦争に突入しカリブ海やインド洋は一時的に海軍の及ばない無法地帯となった。
また、この戦争でイギリスはフランスを対象とした私略活動を開始している。

このころに活動していたのがpiratesつまり海賊である。
彼らは本当に無国籍の寄席集まりのような集団で、無差別に獲物を求めて海賊行為を働く正真正銘の海賊いわゆる現代のメジャーイメージにおける海賊達である。
もちろん、バッカニアとは地続きであるし、バッカニアからパイレーツになったものも多いので幾分記述が曖昧になることはご容赦いただきたい。

ここで始めて海賊たちが海賊旗いわゆるジョリーロジャーを掲げたのである。

代表的な海賊として名を上げるなら。
ロバーツ・バーソロミュー
エドワード・イングランド
ジョン・フィリップス
サミュエル・ベラミー
等である。

例外的な位置にウィリアム・キッドが存在する。スペイン継承戦争中のイギリスがフランスを対象に私略活動を行っていた中、キッドは私略船としてイギリス貴族達から出資を受けて船を調達したが、行った海賊行為は当初定められた私略免許に即しておらず、
(フランス船対象の私掠免許しかもっていないにもかかわらず無差別に海賊行為を行っていた。)
結果的に行った海賊行為は全て非合法とされロンドンで首吊り処刑された、私略船を名乗ってはいたが実際的にはただの海賊であった。

さて、ではこの国家に属さない無法者のpiratesであるが、イメージと現実というのはしばし乖離する。
現代の海賊達のイメージとは凶悪な船長、残虐無比な獣な船員、自由気ままな航海、無法者の略奪者、といった具合だ。
これはキャプテン・チャールズ・ジョンソンの「海賊史」の記述を元にしている場合が多いがこの海賊史はある一面では非常に正確だとされているが、一部の例外的な狂気の海賊、例えばエドワード・ロウなどが大きく取り上げられ実際の一般的な海賊生活がどのようであったのか、そこまで踏み込んだ書物は以外と少ない。

だが海賊達はこの事実とは違う世間イメージを自らのコマーシャル戦略に積極的に取り入れていたため、様々な伝説とともに海賊列伝は非常に華やかなものとなり、長らくそのイメージは事実であったかのように伝わっていた。
では実際海賊達はどのような集団であったのか?
君がジョリーロジャーを掲げる海賊一味だったら?

そういう目線で海賊達を見ていこう。

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世界不思議発見 メキシコ

さてこんばんは、今週はメキシコでしたね。
今日は歴史の狭間に眠る一つのお話。

メキシコ史には二つの帝国と呼ばれた時代がありました。
現在のメキシコ政府は二つ目の帝国を認めていませんが、正当にせよ不当にせよこの地に帝国があったという事実は残ります。

一度目の帝国は1822年から1823年の僅か一年間の間存在したメキシコ帝国、皇帝はアグスティン1世在位は僅か1年。
二度目の帝政はフランス皇帝ナポレオン3世によって樹立した帝国1864年から1867年にかけて存在した帝国です。皇帝は神聖ローマ皇帝の弟マクシミリアン1世で在位は3年間。

時は200年前メキシコ独立戦争までさかのぼります。
1810年から1822年にかけてのメキシコ独立戦争は宗主国スペインに対して起こされたものです。
折しも、1810年、本国スペインは当時ナポレオン戦争(1803~1815)によってブルボン王家国王フェルディナント7世がスペインから追放されるという事態に陥っていました。
この政情が不安定な時期にメキシコにおいて最初の独立運動が起こりました。

最初の独立運動はメキシコ生まれの白人司祭ミゲル・イダルゴによって始まりました。ミゲルは教会の司祭という仕事を通じて現地人ネイティブやメスチーソと深く関わり、彼ら農民や鉱山労働者の厳しい生活を知り彼らの生活を憂いていました。
対して宗主国スペインから派遣された白人(ベニンスラール)たちは貴族、完全支配階級として君臨し、メキシコ生まれの白人(クリオーリョ)は現地人よりは優遇されていたものの被支配階級であったので同じ白人でありながら全く違う境遇にその苦悩も深かったのです。
ミゲルはクリオーリョ達と共に立ち上がり、この制度的搾取を終わらせるためには現地の人間たちの力で独立を勝ち取るしかないと言う結論に至ります。
1810年9月16日ミゲルはメキシコの小さな町ドロレスの教会の鐘を鳴らし、人々を集め決起の演説を行ないます。
この演説はドロレスの叫びと呼ばれ、「悪辣な政府と植民者スペイン人に死を!メキシコ人よメキシコ万歳!」と演説を行ないました。この叫びはこれまで苦痛にあえいでいた被支配階層ネイティブ、メスチーソの心に訴えかけるには十分なものでした。
ミゲルの演説を聴いた民衆は怒りに打ち震えました。被支配階級として生まれ被支配階級として当然のように人生を終える。彼らはこの世界の不条理に対して公然と牙をむいたのです。
ミゲルは人頭税の廃止、奴隷制の撤廃、徴収された農地の返還を掲げ当時最大の鉱山都市グアナフトに向かいます。

その数2万人、彼らはその怒りをグアナフトのスペイン人に対して爆発させます。グアナフトの鉱山労働者達もこの反乱に加わり、現地のスペイン人を虐殺し食料などを略奪しました。数を増す反乱軍はメキシコシティを目指し、随所の都市を陥落させ各地でスペイン人を虐殺しました。
しかし、破竹の進撃を続けるものの、彼らには目に付いたスペイン人を殺す、奪う、追放する。これだけのイデオロギーしかもっていませんでした。各地でスペイン人からの開放を続ける群衆は農民や鉱夫の熱狂的な支持は得たものの、統治と言う形には至りませんでした。要するにこれからどうするか、そのモデルが無かったのですね。「悪いのはだれだ!スペイン人だ!では殺せ!」この反乱はシンプルでわかりやすくはあるものの、その先の新たな体制を作るには至らず国家としての枠組みも持つことはありませんでした。
そして、クリオーリョ達はひたすらにスペイン人を虐殺するだけの反乱から距離を置き始めていました。
1811年3月、彼ら反乱軍はメキシコシティに向けて進軍中に政府軍の待ち伏せに会い壊滅、ただひたすらに膨張を続けただけの群集たちは砂の城のようにバラバラと崩れ去っていきました。
1811年7月アメリカへ脱出しようとしたミゲルは逮捕され銃殺されてしまいます。

このナポレオン戦争時代、本国の混乱を好機としてベネズエラ、エクアドル、ボリビア、コロンビア、アルゼンチン、チリ、これらのスペイン植民地である南アメリカ国家が次々に独立戦争を起こしてしています。

メキシコにおいてもクリオーリョの指示を集めることができれば、情勢は変わったかもしれません。
ミゲルの起こした反乱は失敗しましたが。メキシコ各地に大きな波紋を広げることになったのは確かです。
この反乱を前後してメキシコ国内でも小規模な反乱は相次いでいました。フランス革命から始まった自由主義の波はアメリカの独立、南米各国の独立闘争を経て、メキシコ人達ははっきりとスペイン人の支配を不当なものであると自覚しつつあったのです。
そのなかで大きな反乱はメスチーソである司祭ホセ・マリア・モレーロスの反乱です。モレーロスはミゲルと違い、はっきりと独立の形を描いていました。奴隷制度の撤廃、主権在民、三権分立をかかげた独立運動は反乱と言うより革命であり。新しい国家の誕生を予感させるものでした。モレーロスは南部を掌握し憲法を公布、公然と独立を宣言しました。しかし、モレーロスにとって不運なことにこのタイミングで本国スペインを混乱に陥れていたナポレオン戦争が終結してしまったことです。
国家は教皇に認められた皇帝の下に統治されるべきであるという王権神授説が当時の国家体制の中心であったこともあり。モレーロスに賛同するクリオーリョや軍人や貴族は少なかったのですね。スペインの混乱の終結と共にモレーロスは独立を維持できなくなり、各地でメキシコ王党派政府軍に敗北し1815年に逮捕され銃殺されます。

スペイン人、クリオーリョ、メスチーソ、現地人、複雑に絡みあった人種と階級の違いは必ずしも革命と保守という二つのイデオロギーの対立という単純な形にはなりえませんでした。
現地人は白人全てを憎んでいましたし。クリオーリョはスペイン人との階級差に不満を覚えていたものの、地位や仕事は現地人よりは優遇されていたため。現地人の急進的な白人排除運動には賛同することができなかったのです。混血であるメスチーソにとってはどちらにも行き場の無い状態でした。

こうした混沌とした情勢の中、アグスティン・イトゥルビデという一人のスペイン王党派の軍人がメキシコ北部で独立派反乱軍と戦っていました。当時の階級は中尉。一介のクリーリョでしかありません。彼が後のメキシコ皇帝アグスティンです。僅か一年余りの第一次メキシコ帝国の皇帝となる人物です。

アグスティンは生粋の保守主義者であり王党派の人間でした。主権在民など全く考えに無く、王権神授説を信じていて体制側に立ちミゲルの反乱やモレーロスの反乱において反乱軍を完膚なきまでに叩きのめし大きな戦果を上げています。

そんな彼がなぜメキシコ独立をなしえたのでしょうか?
これもやはりスペイン本国の混乱に大きな要因がありました。

スペインはナポレオン戦争終結後、フェルディナント7世がホセ1世を追放し再びスペイン国王の在位についたものの、前国王つまりナポレオンの兄ホセ1世の行なった近代的な国家政策を全て否定し、旧態依然の絶対王政へゆり戻しを進めていました。スペインは当時二つの価値観がちょうどぶつかる狭間のような状態で。ナポレオンによってもたらされたフランス革命から続く自由主義の波と保守的な絶対君主制の二つのイデオロギーが混在し不安定な状態になっていました。

ナポレオンがもたらした自由主義の波と書くとちょっとずれていますが、ナポレオンはともかく、ナポレオンの兄ホセ1世はスペインにおいて自由主義的思考を持った近代的な国家体制を敷こうとしていたのです。

このフェルディナント7世の施策は自由主義者たちの反発を招き、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐による革命を誘発しました。(リエゴ革命)
ヌニュエス大佐は独立闘争を続ける南米各国の鎮圧に向かわされる予定だった部隊に所属していたのですから皮肉と言えば皮肉です。
というより、ナポレオンの支配からの独立戦争を終えたスペインが帰ってきた国王を失脚させる、というややこしい事態はスペインの複雑な状況を端的に示しているでしょう。

「スペイン王の失脚さる!」この衝撃のニュースに危機感を覚えたのがメキシコ政府です。
メキシコ王党派はスペインの絶対的支持、つまり、自らの正当性を王権神授説に託していました。つまり、スペイン本国が民衆革命に陥ると即座に自らの正当性が疑われます。
権力を行使するときそれが何によって担保されているか?というのはいつの時代でもとても重要な問題なのです。正義なき力は暴力であり、力なき正義は無力であると偉い人がおっしゃっていましたね。正義とはなんなのか,この時代の正義とは王権なのか主権在民なのか?という二つの正義の狭間の物語です。

メキシコ王党派は即座にスペインの革命政府に反旗を翻します。正当な王でないものに我々は従わないというわけです。
ここに至ってアグスティンは一つの賭けに出ます、メキシコをスペインから切り離し、別の正当な王家を向かえて独立国としよう、というわけです。もはや正当ではなくなったスペインではなく正当な血筋を持つ王家を招きいれようというわけですね。

こうしてアグスティンはメキシコ北部戦線で戦っていた独立派と和解、スペイン王党派も彼の意見を支持、そしてスペインから切り離されるわけですからコエリーリョ達にも受け入れられるというかなりの離れ業をやってのけるのです。

この発想は驚きですね。

こうして、様々な味方を得たアグスティンは王党派、独立派の軍勢と共にスペイン軍を撤退させ、民衆の支持を取り付け、軽々と独立に成功しました。
南米各国で多数の血を流して成し遂げた独立と違い、あっさりとした無血での独立です。

しかし、見込み違いがありました。
ヨーロッパ各地の王族に打診したものの、誰もこの国の王になると名乗り出るものはいなかったのです。それもそのはず、もともと、独立派と王党派は相容れないもの、一時の利害で一致しているだけでこのいびつな器に収まる王なぞ存在しえません。

この結果、幸運か不運か、なり手のいない帝国の皇帝にアグスティンが選ばれることになってしまいます。彼自身望んでもいない玉座でした。
そして、皇帝とはいえ、王党派からすれば正当な血筋でもない皇帝であり、独立派からすればただ単にスペイン本国からアグスティンの帝国になっただけという、どちらともとれない奇妙な帝国の成立、このいびつな帝国は一年も持たずに崩壊します。

彼がやった反対派の弾圧はこと王としては当然の権力の行使ではあったでしょう、しかし、なんの権威も無い権力の行使は反発するのに十分な理由になります。正当な王様がやったことは許されるが成り上がりがやることは許されない、そう考えた人もいれば、そもそも王様なんぞ認めないという考えの人にも受け入れられません。彼自身が白人であったことも悪いほうに傾いていきました。何もしなくても皇帝として失墜し、なにかしても失墜する。アグスティン1世は中部アメリカの併合に成功したり王としての成果もあったものの。アグスティンにとって望まなかった皇帝は不幸な結果になりました。

1823年結局どこからの支持も得られないまま、各地の反発に耐え切れずアグスティンは自主的に退位し、メキシコからの年金を条件に出国します。出国と言うより追放ですね。その後イタリアに亡命し、ロンドンに渡ります。

その後彼は何故か1824年メキシコに戻ることを決意します。
何が彼をそうさせたのかわかりません。
結果は見えていたし彼を待ち望む民衆も皆無でした。
もしかしたら生まれ育ったメキシコの地で穏やかに年金生活を送ろうとしたのかもしれません。しかし、新たに共和制となったメキシコにとって皇帝は邪魔な存在でしかなかったのです。彼は上陸した直後、その場で逮捕、射殺され一介の軍人から皇帝となった41年の数奇な人生を終えます。

さて、長くなりすぎましたが。
いかがだったでしょうか?歴史の狭間に埋もれている物語。自ら望まぬ王が誰も望まぬ玉座についた物語、数奇な一年の帝国。
楽しんでいただければ幸いです。
もう一つの歴史の狭間の物語、第二次メキシコ帝政については明日書きましょう。
それでは、良い一週間を!

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大航海時代と壊血病

さてこんばんわ。

今週は世界不思議発見がないのでお休みしようかと思いましたが。
何も書かないと言うのも個人的に一週間のサイクルに問題があるのでちょっとした小話を。

時は大航海時代、大航海時代という区分けは非常に抽象的ですがとりあえず1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見から1869年のスエズ運河の開通までとしましょう。

当時の帆船航行において壊血病は恐怖の象徴でした。

壊血病は今でこそビタミンCの欠乏症であることが一般常識となっていますが、当時はまだその知識は無く、当時の医学も医学というよりまじないに該当していました。
当時の医学は古代ギリシャ時代からほとんどかわらない体液理論を基礎として用いていたのです。
体液理論とはギリシャのヒポクラテスが提唱し、ローマ帝国のガレノスが纏め上げた古代医学です。具体的には人体が体液によって制御されているという理論です。中世の人々は病の正体がわからないため、体液のバランスが狂うことで人は病になると考えていました。
このため、あらゆる食事が体液のバランスを是正するために有用であると考えていました。
この考え方は直感的に理解しやすく、また、様々な歴史上の経過知識もこれを肯定していたため、イスラムから中国まで世界の文明に広まっています。
この考え方は科学的ではありませんが、蓄積された歴史を基にしているので直感的に理解しやすいです。
例えば、牛肉が冷で小麦が温、コショウは温で青野菜は冷などと全ての食べ物が冷と温に分類されていました、この食物の区分けは文明によって様々に異なり、ところどころ互いに矛盾していますが、例えば風邪を引いた状態を人体のバランスが冷に傾いたと考え、冷の食事を採らず、温の食事を採るといった感じで非常に理解しやすい医学だったのです。
現代にこの体液理論の面影を色濃く残しているのは漢方薬ですね。

さて、当時の医学が神秘主義的様相を帯びていた中。航海中に発生する壊血病は正体不明の悪魔でした。
ビタミンCを体内で合成できない動物は人間と一部の霊長類そしてモルモットだけです。たいていの動物はブドウ糖からビタミンCを合成できることから、これは人間の持つ生物学的欠陥と言えるでしょう。このことから人間は果物を主食とするサルから進化したのだろうかな?などという仮説ができますがこれは私の妄想でございますw

ビタミンCが欠乏すると細胞同士をつなぐコラーゲンが不足します。コラーゲンといえばおはだつるつるですが、細胞同士をつなぐと言う重要な役割もあるのですね。
コラーゲンが欠乏しだすと、毛細血管が崩壊し始め、体中の細胞から出血が起こります。
具体的な症状は倦怠感、関節の痛み、軟骨部分での出血が起き、そして最も象徴的なのは歯茎からの出血、歯茎の壊死です。歯がぐらつき、重度の歯槽膿漏となり痛みで物が噛めなくなります。
関節が硬化し、歯が抜け落ちていく様は恐ろしいものがあったでしょう。

ビタミンCを全く採らずにいた場合、壊血病の進行が致死に至るまで、個人差はあるもののだいたい90日がデッドラインと考えられています。

リスボンからインドを目指す場合、最短距離をとっても90日はゆうに越えてしまいます。
セビリアからベラクルスまで100日から130日、このような航海において何が起きるかは全く定かではなかったのです。
初期の航海では食料自体が尽きることは稀ではなく、壊血病の正体がわからないため、そのための積荷も無く、またそれを知ったとしても保存しておく技術もありませんでした。
ビタミンCは酸化しやすく、また、最も食料を調理しやすい加熱によって、ビタミンCが失われてしまうという無残な事実です。
現代、最も壊血病に効果的と思われるものはクロフスサグリ(ライムの8倍のビタミンC含有量)でありますが、それらが船に積まれることはありませんでした。

そのため、多くの航海が死と共にあったと言えます。
1497年から1499年のバスコ・ダ・ガマの初めてにインド航路往復は行きも帰りも洋上で90日以上を費やしました。歴史上初めて壊血病の惨禍にみまわれたのがこの航海でしょう。
乗員180人のうち100人がこの病で命を落としました。この航海中ほとんどの船員たちは原因不明の奇病にかかり、腐って落ちる歯をなんとか消毒しようと自分の尿で口をすすいだと言われています。

1520年のマゼランの航海においても壊血病は猛威をふるいました。この航海は食料が早々に尽いてしまった(船員の恐怖によって反乱が起き食料を積んだ船が離脱してしまう)という不幸があったため様相はかなり悲惨なものになりました。
航海日数は100日を越え、太平洋フィジー諸島にたどり着いたときには腐ったビスケットを食べぶくぶくに膨れ上がった歯茎で帆をつなぐ皮をかじると言う有様でした。
フィジーにたどり着いたマゼランは現地人の村を襲い村民を殺害して食料を強奪しています。フィジーまでの航海で21人が壊血病によって命を落としています。

当時、壊血病は謎の病でした。長期的な航海に必ずと言っていいほど発生したため。
船医たちの洞察は塩分と湿気、伝染病に向けられていました。猥雑な船室と長期に晒される潮風が何らかの影響をあたえていると考えていたのです。

新鮮な食べ物に効果があると気が付き始めたのは16世紀も後半になってからでした。
当時壊血病は冷に分類される病でした、レモンやライムなどが温に分類されていたためこれらを用いることに何らかの効果があるのではないか?と人々は推測したのです。

1560年代にスペイン語圏アメリカでは壊血病にパイナップルが有効であると発見されていました。壊血病に苦しみながら現地に到達する船が多かったためこれを用いることが有用だと経験によって発見したのです。しかしこれは現地の人間の間だけにとどまりました。

1569年にはすでに探検家セバスチャンビスカイノが新鮮な食料によって壊血病から回復できることを発見していました。といっても、何によってではなくとにかく大量の色々な食物を与えることで壊血病から回復するという実際面において運用された知識です。
これらは船乗りの知識として蓄積されていて、イギリスやオランダの船員達はなんらかの新鮮な果物を用いていました。しかし、こういった治療法は思い込みや言い伝えによるものが多く中には海水を飲ませたり、ミョウバンを飲ませたり効果が定かでなかったものも多いです。

新鮮な何かという回復方法を見つけたものの根本的な予防はならず、壊血病は原因不明の病のまま250年にもわたって長期航海においては慢性的に起こっていました。

壊血病においての転換期は1750年から1760のイギリス人海賊ジョージ・アンソン提督による世界周航において1900人の船員のうち1500人を失うと言う歴史上最悪の壊血病被害を被ったことが挙げられます。
この航海は様々な障害からここまでの被害をだしたのですが。この航海をきっかけにイギリスは壊血病の治療法を模索し始めます。

イギリス人海軍医ジェームス・リンドは12人の壊血病にかかった船員のサンプルを用い、有用とされる様々な方法を試しました。そのなかには海水を与えるものや硫酸溶液を与えるものなど怪しげな方法もあったのですが。オレンジとレモンを与えるというものもありました。
この12人の患者の中でオレンジとレモンを与えたものだけが回復したため、壊血病の治療法がようやく見つかったのです。

しかし、治療法は見つかったものの、この治療法が確立することはありませんでした。
というのも、体液理論によって体系付けられた当時の医学において患者の体質が重視されていたからです。体質によって有効な治療法が異なるというのが当時の医学者の考える常識であり、これが最大の障害になったのです。
さらに、新鮮な柑橘類をどのように保存するかという現実面での問題も大きかったのです。
壊血病の予防に柑橘系の新鮮な食べ物というのは費用的に採用しづらく、イギリス海軍は結局発酵していない麦芽を採用しました。しかし。これにはビタミンCが含まれていませんでした。ちなみに、」1772年から1775年に掛けてクック船長に同行した船医ディビット・マクブライドもこの方法を支持しています。

当時、ビタミンCを保持したまま保存が利く食料はザウアークラフトというキャベツの酢漬けだけでした。オランダ海軍はこれを積荷に加えていました。効果はあったようですがこれも確証があって用いたものではなかったようです。
この食料を積極的に用いたのがクック船長ことジェームス・クックです。1768年から1771年にかけての第一回南太平洋航海において、クック船長は壊血病を無くすために推奨される全ての予防法を試しました。クック船長がザウアークラフトの効用に気が付いたかは諸説ありますが。積極的に船員たちにザウアークラフトを食すように指示していた事は確かです。結局、壊血病による死者を一度も出さなかったこの航海においてザウアークラフトが積荷に存在したため、クック船長の偉大なる名声とともにこの食料は後の長距離航行の定番品となったのです。
イギリス海軍は後にザウアークラフトをライムジュースに切り替えますがそれは大分後の話です。

イギリス海軍はザウアークラフトを用いましたが。
しかし、その知識を体系的に生かした時代はさらに後になります。
実に壊血病の発見から250年も経っていた、1785年から88年まで活躍したフランス人太平洋冒険家ジャン・フランソワ・ド・ラベールがとっていた対策が「陸の空気を吸う」という的外れで原始的な方法だったのです。

壊血病がビタミンCの欠乏とはっきり明らかになったのは1932年、400年も後の話です。

いかがでしたか?
当時の航海は非常に恐ろしいもの、まさに、死と隣り合わせのものだったのです。
海賊あり、現地人の襲撃あり、壊血病もあり、そもそも、嵐や座礁、食料が尽きての頓挫など本当に当時の船乗りを思うと素晴らしい生命のエネルギーを感じます。
何人が生きて帰ってこれるか?それとも全員死ぬか?というべき極限の航海に乗り出す人々のエネルギーは人間の挑戦という文脈において現代でいえば宇宙への航海に通じるものがあるかもしれません。
これまでの人間の挑戦は、現代の我々が想像するより遥かに過酷な状況においてもなされてきたものです。想像を絶する挑戦はこれからもなされると思いますし、そういう人間的なエネルギーは素晴らしいと個人的に思います。
一航海が生死を分け、その航海が莫大な富と名声をもたらす。当時の気分に浸りながら航海するのもいいのかもしれません、と言いながら私は全くの休止中ですがw

それでは良い一週間を!

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世界不思議発見 プロヴァンス

さてこんばんは、今日は南フランスプロヴァンス地方です。

プロヴァンス


プロヴァンスというのはフランス南東部のデュランス川、ヴァール川、ローヌ川一帯を指しています。
この地方は日本人にも人気が高く、観光客も多い名所ですね。
特に女性、奥様方の憧れの土地といえるでしょう。
新婚旅行はプロヴァンス、夏休みはプロヴァンス、言葉の響きだけでもなんだかお洒落ですね。

なぜこの地方がプロヴァンスと呼ばれるのかというと、もともとこの地方はフランスに統合されるまでプロヴァンス伯の領土だったからです。いわゆる貴族の領土です。
ヨーロッパ貴族の起源は西ローマ時代までさかのぼります。
西ローマ帝国の地方官が貴族となり中世へ流れていくわけです。当時の認識では「この土地はローマ時代から続く教皇より認められたプロヴァンス伯爵領」といった感じだと思います。

ちなみにフランス第二の都市マルセイユもプロヴァンス地方にあたります。
典型的な地中海性気候に育まれた大地は温暖で乾燥性、年間の日照時間が2500時間以上と、毎日晴れといった陽気、特に春から夏にかけては、過ごしやすい気候からフランス各地からバカンスを過ごす人々が訪れるほか、外国人観光客にも人気の絶えない地域です。

名産はワインやオリーブ、ラベンダーなど、広大なオリーブ畑やブドウ畑が広がる平野部はフランスの代名詞といっていい光景ですね。

プロヴァンスの村



都市も名前を挙げるだけでアヴィニョン・アルル・マルセイユ・サンミレと名だたる観光名所が並んでいますね。
アヴィニョンにはフランク王国時代に教皇庁がローマから移されていたこともあり巨大な教皇宮殿が鎮座しています。アヴィニョンを訪れるなら毎年夏に開かれる演劇祭ラ・フェスティバルズ・アヴィニョンに合わせて訪れたいものですね。

アヴィニョン
アヴィニョン教皇宮殿

アヴィニョン演劇祭は1947年に始まった50年以上続く歴史ある演劇祭で今ではイギリスエディンバラの演劇祭などと並んで世界の名だたる演劇祭の一つとなっています。
7月の3-4週間にわたって行なわれ、100以上の会場で1000近くの演劇が行なわれます。
会場は教皇宮殿から街中の教会、学校の体育館まで様々な場所を使って行なわれ、10万の人が訪れるそうです。


さらに、アルルやサンミレと言えば、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが製作の最盛期を過ごした場所でもあります。
彼はアルルに芸術家村を作ろうと夢見て、精力的に活動し、ゴーギャンと共同生活を送るものの、精神性疾患から挫折、失意のうちにサンレミの精神病院に送られます。
彼のアルル滞在は一年あまりでしたが、その間に300点以上の作品を描いています。そのお陰で彼の代表作の多くはアルルやサンレミで描かれたものが多いです。ひまわり、星降る夜などなど。当時ゴッホは35歳、1890年に彼がパリ近郊で自ら命を立つわずか2年前の出来事です。

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アルルの跳ね橋

ちなみにゴッホと同じ印象派のセザンヌもプロヴァンス地方のエクス・アン・プロヴァンスという街で活動していたりします。

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アルル遠景

アルルはローマ時代から栄えた古代都市でかつてガリア地方の中心都市として栄えました。今でも古代ローマの円形闘技場、そしてローマ人といえばおなじみの公衆浴場跡が残っていて世界遺産に登録されています。
現在のアルルでは毎年7月に写真祭が行なわれていることでも有名です。
1970年から始まった写真祭は様々な場所から写真家と企画家が集まり巨大なコンペ会場と化します。こちらはどちらかと言うと見る芸術祭というより参加する芸術祭の様相が濃いかもしれません。
もちろん、古代ローマ遺跡を利用した展示や、教会での展示など、展示も様々にありますが。
最も意味があるのは写真家当人でしょう。
この祭典で企画家の目に留まれば、その後の活躍の場が一気に広がりうるという意味で、写真家の登竜門のような役割を果たしているようです。


日本では余り知られていない祭りもあります。
5月中旬に行なわれる、港町サント・マリー・ドゥ・ラメールのロマの巡礼などはいかがでしょうか?
ロマとはジプシー(ジタン)とも呼ばれ、もともとは1000年ごろにヨーロッパに移住したインド系のアジア人だと言われています。
彼らは移民者故、ヨーロッパにおいて定住することを許されず、幌馬車でヨーロッパ中を流浪し続ける不遇の民族でした。それ故、被差別民の代名詞としてジプシーと呼ばれ、ジプシーと言う言葉自体がよそ者、乞食、と言った暗喩として用いられるようになりました。
ロマとは1971年の第1回世界ロマ会議において彼らが自称した新しい民族称です。それほどジプシーと言う言葉には悪印象が根深かったのだと思われます。
ロマは第二次大戦後までは定住することすら許されなかったので、職業も工芸師、芸人や占い師など移動系職業に固定化されたため、現在でも定住せず自動車で移動し続けているロマもいます。
さて、サント・マリー・ドゥ・ラメールには伝説がありました。
キリストの死後、エルサレムから一隻の小船がこの地に流れ着いたというのです。船に乗っていたのは聖母マリアの妹マリア・ヤコベ、十二使徒ヤコブとヨハネ兄弟の母マリア・サロメ、キリストによって死から蘇ったラザロ、そしてイエス復活を目撃したマグダラのマリア、召使の黒人サラです。
彼らはこの地に礼拝堂を建てプロヴァンスへの伝道と足がかりとしました。

ラメール
現在のラメール

ロマたちは召使の黒人サラを「異民族の身ながらキリスト教伝道に尽くした」という点に深く共感し彼女を聖女として祭り、彼女の境遇を自分たちのルーツと思いを重ねることになったのです。
彼らの悲哀が伺われる悲しい物語ですが。
毎年5月に聖女サラを祭って行なわれるサント・マリー祭は、ヨーロッパ中、いや世界中から流浪民のロマが集結し、華やかな祭りの舞台となります。

流浪の民ゆえ演芸技能によって身をなしてきた、そういう面もあるロマは独自のロマ音楽(ジプシー音楽)を持ち、多彩で技巧的なギターと陽気なダンス(フラメンコの起源)が町中で行なわれ、サント・マリー祭が行なわれると、普段は穏やかな港町サント・マリー・ドゥ・ラメールが一転。そこかしこで、ギターの即興演奏が始まり、人々は笑い会い、祭りは素晴らしい音楽の祭典となります。
流浪の民ロマの哀愁を感じさせない陽気と強さに何故か心を打たれますね。このお祭りはサラの像を海まで運んでいくところで最高潮に達します。

ジプシー音楽ってこんなのです   ③エキゾチックな魅力に溢れています。

そしてお祭りの様子    すごく楽しそう!!!

非常に興味深いお祭りですので、機械があれば私も訪れてみたいなぁと思う限りです。


そういえば、ドラゴンクエスト4のミネアとマーニャはロマ(ジプシー)がモデルになってますね。
職業も占い師と踊り子ですしね。ドラゴンクエスト4の4章の戦闘曲もジプシー音楽をイメージしたものになっています。

さて、プロヴァンスの文化の一端を紹介させていただきましたがいかがでしょうか?
地方というのは書きづらいので難しいですね。
歴史的なポイントを抑えればいいというわけでもないですし、ちょっと散文的になりすぎたかな。
楽しんでいただけたなら幸いです。

それでは良い一週間を。

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